マルボロの夜
僕、いや、私はコーヒーの湯気を眺めながら考えた。彼女はとても美しく綺麗だ。それだけであろうか。私はコーヒーを一口啜って心を静めた。本当にそれだけである。自分が一番分かっている。彼女がとても美しく綺麗であるというだけである。それだけのことで私はここまで追い詰められてしまったのだ。振り返れば一目瞭然である。私の背後にはぐしゃぐしゃになって散乱した書きかけのレターセット、そして、その中に吊るされたロープが一本。私は今にも傷だらけの体をそのロープにゆらゆらとゆだねてしまいそうである。私はコーヒーを啜って部屋を眺めた。こうなってしまったきっかけは何だったろうか。そもそも私と彼女は全くの無縁で、言わば、赤の他人なのである。互いの名前や住所などはもちろん何も知らず、私が立ち寄る本屋や喫茶店で彼女をよく見かけるので互いに顔を覚え、なんとなく会釈をする、その程度である。彼女はいつも誰かと一緒だった。ある時、彼女が友人と楽しそうに会話をしている様子を見ていた。次の瞬間に湧き起こった自分の気持ちに驚いた。私は「死にたい」と思ったのだ。死にたい死にたい死にたい。死にたい死にたい死にたい。頭の中で「死にたい」という言葉が何度も何度も呟かれていた。
私は椅子の乗り、部屋のロープに首を引っ掛け、マルボロに火を点けた。じりじりと煙を上げる。煙と一緒に「死にたい死にたい」とぶつぶつ呟いてみた。ただそれだけで心が救われていく気がした。手首の傷を見た。血が滲んでいる。今にも破綻しそうな私の心にとって、死は温かすぎる。枯れた廃墟に雨が降るかのように、私の心は哀しみで潤っていく。心が暗く青く潤っていくことに快感を覚えるほど、私にとって哀しみは優しかった。人間とはなかなか単純な生き物らしい。「ただそれだけ」と思えるようなことで、死にたくなったり、救われたり、なんと単純で馬鹿らしく愚かな生き物だろう。マルボロの煙を吐いたとき、一瞬、彼女の顔が頭に浮かんだ。私という人間はなんと汚い存在なのだろうか、私は椅子を蹴った。ぐっと首に体重がかかる。意識が、遠のく。何枚もの写真を見ているかのように彼女の笑顔が頭に映る。あぁ……そうか。本当に単純なことだったのだ。ただ一言、たった一言だけでも、話をしてみたかっただけ。ただそれだけだったのかもしれない。そう思ったとき、私の頬は緩み、口からマルボロが音もたてずに落ちていった。
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