心の中の漂流者



 私は海の上にかかる橋をぼんやりと歩いていた。風が寝不足の頭の中を潮の香りとともに通り抜け、さわやかな気分にさせてくれる。私はこの海が好きだ。辛いこと、苦しいこと、何もかもを忘れさせてくれる。私は何をするわけでもなく、ただただぼんやりと、海から吹く風を感じていた。もうそろそろ彼女が歩いて来る頃だろうか。
「こんにちは。今日もここは気持ちがいいですね」
 彼女は淡い黄色のワンピースに白い靴、そして、ツバの大きな帽子がふわりふわりと風になびいていた。
 私は辛いことがあったわけでもないのに心が沈む性分のようで、いつも心に悲しみを抱きながら生きている。いつからそうなったのか、覚えていない。いや、覚えているが、思い出したくないだけであろう。しかし、私のような一般人の経験など、難解であるはずもなく、その単純明快さから簡単に思い出せてしまう。私をこんな悲観的な人間にしたのは、誰もが経験するようなよくある話である。昔の私は、成績上位でスポーツもそれなりに活躍できる人間だった。今思えば、あの頃の私は、恥知らずであるがゆえに、自信に満ちていた。そんな自信に満ちた私は堂々とした態度で生きていた。自分が本気を出せば、簡単に世界を揺るがしてしまうと錯覚してしまうほど、自分を過信していた。いや、あの時は本当にそうだったのかもしれない。勢いの衰えない波に乗るような気分で、勉学や趣味に没頭し、自分の能力を上げていた。そんな最中、私は初めて恋愛をしたのだった。
 その瞬間から、私はすべてを恋愛に注いでしまった。四六時中、頭から相手のことが離れなかった。恐らく、私は正しい恋愛の仕方を知らなかったのだろう。相手のことを考えて動けば動くほど、空回りした。それから勢いが衰えることのなかった波の水位はみるみるうちに下がり、様々な壁や山にぶち当たった後、波は力を失い、ただの小さい水溜りになっていった。そうした自己破滅的状況下で、私が半ばパニックを起こしているうちに、初恋はふられる形で幕を下ろした。私は一気に何もかもが手からこぼれ落ち、私はぼんやりと人ごみの中を目的も持たずに歩いていた。そこからだっただろう。恐ろしく悲観的になったのは。
「世の中はこんなに難解だっただろうか。世間はこんなに冷たかっただろうか。私は こんなに非力だっただろうか」
 何があったわけでもなくとも、ずっとそんな声が心の底から聞こえてくるようだった。耳を塞ごうとも、眠ろうとも、心の底から漏れる声は頭に響いた。そんな私がどうしようもなく沈んだとき、この橋を散歩するのだった。暗い空気を纏った私に、声を掛ける人間などおらず、私はぼんやりと誰にも邪魔されることなく静かな孤独に身を染めながら、穏やかな潮風に当たっていた。
 そして、私がそうなってから三年ほど橋に通った頃、声を掛けてきたのが彼女なのである。それが確か、今から二ヶ月くらい前の話だ。物好きもいるものだと思ったのを覚えている。その時何を話したのか、正直覚えていない。恐らく他愛もない話だったのだろう。他愛ない話だったのだろうが、私は人と会話をするのが久しぶりでなぜか懐かしい気分がした。それから、橋の上で会っては話をしながら橋を歩いた。私たちは生活のリズムが似ているのか、待ち合わせをすることはなかったが、毎日橋の上で出会うのだった。気がつけば、私たちは毎日橋の上を一緒に散歩していた。実は待ち合わせをしない理由はもう一つあった。散歩という暇つぶしにわざわざ待ち合わせをする必要がないだろうし、どう誘えば良いのか言葉が見つからなかったのだった。さらに、私の過去のトラウマというべき経験が私の根性をひどく縮こませていた。ただいつも別れ際に、
「私は明日も……」
 と言っている。「さようなら」と言うともう会えなくなる気がするし、「明日も会いましょう」と言うと相手に気を使わせてしまうかもしれない。それが原因で嫌われたらと思うと、恐ろしくて夜も眠れない。そんな私がやっとの思いで言えた言葉が「私は明日も」というコミュニケーションとしては決して成り立たないような自己主張であった。そんな私にいつも彼女は
「はい。私も」
 と、柔らかで優しい笑みを見せてくれるのだった。
 私には幼馴染がいる。彼は幼馴染であり、親友であり、私の唯一の相談相手である。私が初恋のことを話せたのも彼だけだった。
「最近楽しそうだな。なんかいいことあったか?」
 私と彼は私の家の近くのカフェでコーヒーを啜っていた。彼はブラックコーヒーの入ったコーヒーカップを持ったまま私の顔を見ていた。
「なんで?」
「お前、最近顔色いいしな」
 彼はコーヒーカップ置き、角砂糖を一つコーヒーに入れた。
「別に、なんもないよ」
 彼は右頬だけを動かし、ニヤッと笑った。
「そんなわけねーだろ。お前、表情に出るんやからすぐ分かるで」
 私は自分の頬を触った。いつもより筋肉が緩んでいる気が……しないでもない。
「な? お前ニヤけてんだよ」
「まじかよ、恥ずかしいな」
 彼は、はっはっはっと豪快に笑った。
「あー、おもろ。ま、よかったよ。お前恋愛失敗してから、ずっとこえー顔してたからな。まぁ、あれは運が悪かったんだけどな。あれから、どれくらい経つっけ?」
「たぶん、もう六年になるかな……」
「もうそろそろきれいさっぱり忘れてもえぇんちゃう?」
「まぁ……」
「まぁ、難しいやろけどな」
 私が言葉を濁していると、私の声を遮るようにテンポよく言葉を発した。
「で、どんな人だ?」
「!?」
 私は、持っていたコーヒーカップを置いた。
「なんで恋愛だってわかるんだよ」
「わかるよ、そりゃ。トラウマを打開したような顔してるぜ」
 私はもう一度自分の頬を触った。なんとなく顔が緩んでいる……か?
「そんな違う?」
「かなりね。で、どんな人?」
「うーん、あんまり知らんけど、優しい感じの人かな」
 彼は組んだ腕をテーブルに乗せて、前のめりになって私の顔を見ていた。
「ほぉー、いいやん。付き合おうとか思わんの?」
「今は、考えてないかな」
 彼は椅子の背もたれにもたれかかった。
「まぁ、仲良くなって、ゆっくりしたらいいよ。お前やったら大丈夫や」
「なんか、ありがとな」
「はは。気色悪い、やめろや」
 彼はコーヒーをまずそうに啜った。
 私と彼女は、未だに約束はしないが、会う努力をするようになっていた。私が遅れた日、彼女は海を眺めて私が来るのを待っていてくれた。彼女が遅れている日は私が海を眺めて彼女を待った。
 私は仕事終わりに、ぼんやりと彼女のことを考えていた。彼女と散歩するときはいつも緊張しているのだろうか、彼女との会話をぼんやりとしか覚えていない。どんな話をしたのかは覚えているのだが、具体的にどんな会話をしたのかは、いくら思い出そうとしても思い出せない。覚えているのは彼女の顔と服装と声くらいだった。なぜか、記憶が漠然としているのだった。私は、今日は会話を大事に覚えておこうと思いながら、橋に向かった。
「こんにちは」
 彼女は白いワンピースを着ていた。いつも彼女は綺麗で清楚な格好をしているなと思いながら、自分のくたびれた服装を見て少し恥ずかしくなった。彼女はにっこりと微笑んでいた。
「そうそう、この間、言ってたカフェ」
 以前私は、私の家の近くにある小さなカフェを彼女に紹介していた。そのカフェで私はよくコーヒーを飲むのだが、そこのコーヒーはいつも薄くて、普段はブラックが飲めない私でもブラックを楽しめてしまうほどである。なぜそんなカフェを彼女に紹介したのかというと、ピザトーストがおいしいこととコーヒーの味の薄さから客が少ないため、人に気を使わずゆっくりくつろげるからである。一人で小説を読んだり、書類を書いたりするには最適なのだ。
「行ってみたんだけど、あそこ、ほんとにコーヒー薄いね」
 行ったのなら是非、私も一緒に行きたかったのだが。ところでピザトーストは頼んだだろうか。
「私、小麦アレルギーで食べられないの」
 しまったか。テンションを下げてしまったか。しかし、確かあそこのパンは米粉を使っていたはずだが。
「え? そうだったの!? 頼めばよかった」
 あぁ、もう少しで橋が終わってしまう。
「あっそうそう、昨日カレー作って余ったから持って来るね」
 それはうれしい。私は感情を外に出すのが苦手だが、このときは力いっぱいの笑顔で喜んだ。そういえば、彼女は普段どんな暮らしをしているんだろうか。
「もうそろそろ帰るね」
 私は橋が終わっていることに気がついていなかった。私は彼女と最後のやりとりをすると、家路についた。
 次の日、今日も仕事大変だったなと思いながら、私は彼女のことを考えていた。昨日はどんな話だっただろうか。また彼女の顔しか覚えていない気がする。確かカレーをもらえるとかいう話が少しあった気がする。今日は会えるだろうか、そう思いながら水を飲み、いつもの場所に向かった。
 しばらく時間が過ぎた。ここの潮風はいつも穏やかで気持ちがいい。私が海を眺めていると彼女は白いワンピースで私のところに現れた。
「カレー、持ってきたの」
 本当に持ってきてくれた。その場で食べてすぐにでも「おいしい」と伝えたい。不味くてもいいからおいしいと言いたい。
「今日は、少し遠回りしませんか? 綺麗な砂浜におりられるんですよ」
 断る理由などない。最近、橋だけの距離では短すぎると感じていたのは私だけじゃなかったようだ。橋を抜けて角を左に曲がりしばらく歩くと砂浜に下りられる場所があった。私と彼女は手をつないで砂浜を走った。帰り際に彼女は
「楽しかった、また来ましょうね」
 と礼儀正しくお辞儀をした。
 私はもう散歩が楽しみで仕方がなくなっていた。当初、橋を散歩するのは気分転換の手段だったが、今はもう橋を散歩することが目的になっていた。その目的もただの散歩ではなく、彼女に会いに行くためになっていた。今日は珍しく私より早く来ていたようだ。橋の真ん中で手を振っている。
「こんにちは。カレーどうだった?」
 おいしいに決まっている。
「今日も行かない?」
 断る理由などあるもんか。
 あれ?ここはどこだっただろう。
「昨日も歩いたじゃない」
 それはわかっているんだが、はっきりと思い出せない。
「ほらそこの角曲がると……」
 あぁ、思い出した。角を曲がると砂浜だ。少し遊ぼうと手を引こうとしたとき、手は空を切った。後ろを振り返ると彼女はいなくなっていた。あれ? どこに……? 私は砂浜や橋や街中を走って探した。名前を呼ぼうとしたとき、私は彼女の名前を知らないことに気がついた。自分の不甲斐なさに涙が出た。私は涙を袖で拭いながら、走り回った。どこに行ったんだ! もう会えない気がして胸が苦しい。気がつけば夜は明け、私は家に戻っていた。
 今日は会えるだろうか。昨日、彼女はどこに行ったんだろう。今日は来てくれるだろうか。そう思いながらお茶飲み、いつもの場所へ向かった。
 もうどれだけ待っただろうか。なぜ来ないのだろう。昨日はなぜ急にいなくなってしまったのだろう。もう会えないのだろうか。そういえば昨日、どこをどう走ったんだっけ……? やっぱり覚えていない。どうやら私は頭がおかしくなってしまったらしい。そんなことを考えているといつの間にか夜が明けていた。私はまた嫌われてしまったのだろうか。彼女に謝りたい。許してもらえなくてもよい。もう私と関わらなくてもいい。私が原因で気に入っていた散歩の道を変えてしまったのではないかと考えると心が苦しくなる。橋を渡って、すれ違っても無視してくれていいから、彼女が望むのならば、私が道を変えるから、橋に戻ってきてほしい。しかし、私との思い出が染み付いてしまったこの橋には、もう二度と戻ってこないだろうか。私は彼女の生活を汚してしまったのかもしれない。私は心が苦しくて仕方がなかった。私は橋に向かって「本当にごめんなさい」と言いながら、しばらく頭を下げていた。
 私は家の近くのカフェで親友に会っていた。
「お前昨日眠れなかっただろ」
 私の顔を見るなり言ったところを察するに、目の下にクマでもできてしまっているのだろう。
「あぁ。あまり眠れなかった」
「だろうな。目の下にくまできてるぞ。歌舞伎やな、歌舞伎」
「歌舞伎ゆーな」
「体弱いくせに無理するからや。さっさと寝ろよ」
「眠れないんだよ」
「不眠症?」
 彼はコーヒーをすすりながら言った。
「あぁ。完全に不眠症になった。睡眠薬がないと眠れない。でも、最近あまり効かなくなってるから、量を増やして無理やり寝てるんだよ」
「それはあかんぞ。いつから不眠症なんだよ?」
 彼はコーヒーカップを置いて、真剣に私の顔を見ていた。
「少し前だ。今から大体二ヶ月前くらいかな」
「二ヶ月前?」
「あぁ」
「なんか悩んでんだったら俺に言えよ」
「あぁ……でも、もう大丈夫だよ」
「もう? ほんとに大丈夫か、お前。いい医者でも紹介しようか?」
「いや、大丈夫だよ」
「……そうか」
 彼はコーヒーをまずそうに啜った。
 その日、私は酒を飲んだ。
「今日で終わりにしよう。私も夢の中の住人になるよ」
 そう呟くと酒を一気に飲み、いつもの場所、ベッドへ向かった。そう、私は二か月前からずっとこうしていたのだった。ベッドに横たわると、目の前は橋の入り口だった。橋の上には彼女がいた。
「ねぇ、僕とずっと一緒にいてくれないかな?」
「えぇ。今まで待ってたのよ」
 私は深い深い眠りについていた。手元には空き瓶と大量の錠剤が散らばっていた。
 私は夢の中に消えていった。夢の中の彼女と一緒に。



戻る
to theMain



Copyright (C) 2010 藤沢侑麻 All Rights Reserved.